
画像引用元:【波】 | 第38回東京国際映画祭
2025年製作/128分/チリ
原題または英題:La Ola(The Wave)
監督 セバスティアン・レリオ
脚本 セバスティアン・レリオ/マヌエラ・インファンテ/ホセフィーナ・フェルナンデス/パロマ・サラス
作曲 マシュー・ハーバート
振付 ライアン・ヘフィントン
出演
ダニエラ・ロペス
ロラ・ブラボ
アヴリル・アウロラ
パウリーナ・コルテス
感想
セバスティアン・レリオ監督の最新作を東京国際映画祭で鑑賞した。前作『聖なる証』を見た時は、物語の持つ功罪に凄まじく自覚的な作風にいたく感銘を受け、その年のベストに選んだ。このブログはサブタイトル(?)に「人がいて、映画ができる」と掲げているくらいだから、人が映画を作っていることを明確にしてくれる作家は一目置いている。
冒頭、暗闇に等間隔で並ぶ正体不明のサウンド。鑑賞後の今思えば、あれは人の呼吸だったのだろうか。徐々に暗闇が引いていくとEDMが鳴るクラブで主人公フリオ(ダニエラ・ロペス)が踊っている。顔馴染みと「H“Ola”」と挨拶を交わし、そのうち一人の男性と親密な空気になっていく。二人はそのままクラブを出て男性の自宅へと入る。カメラはドアの覗き窓へと近づいていく。部屋の中で何が起こっているのか見えそうで見えない。タイトル『LA OLA』が表示される。
主人公フリオはこの時に起きた出来事を、「あれは性加害だったのでは?」と考えるようになり、通っている大学で巻き起こったセクシャルハラスメントや男女差別を告発するフェミニスト運動の波に呑まれていく。特筆すべきは本作がミュージカル映画ということであり、序盤で大学の中庭にさまざまな“女性”(ノンバイナリーやトランス女性も含まれる)が集い、レイプ犯への怒りを顕に踊り跳ねるシーンは間違いなく本作の白眉の一つだ。もうこの時点でちょっと泣いてた。
その後はフリオが自分の体験を振り返る中で、声を挙げる女性たちの中心にいながら強い連帯を感じたり、逆に阻害されている気分になったりといった変化を、ひとところに留まらない流動的なものとして描いている。当然この世にはさまざまな女性がいるので「女性だから」というだけで一枚岩になれるわけはなく、それぞれのスタンスや目的の違いがある。フリオは「声を上げる」かどうか逡巡し、堂々と歌唱してはいても自らの感情を吐露できているわけではなく、様々な場面・場所で感情を押し殺しては噛んでいる風船ガムを机や椅子の裏に貼り付けていく。運動を立ち上げた発起人たちは社会にアピールしたいがあまりマスコミの目を引くことに注力しすぎたり、最終的にはフリオのあずかり知らないところで勝手に学長と話をつけてしまっていたりする。そういう態度をフリオに近しい友人たちは快く思っておらず、独自に行動したいと考えるようになるものの、結局は共に大学への立てこもり(「雨を降らせる」作戦)に参加する。女性を含む警察官たちは証拠がないことを論い、女性リポーターは同意が本当になかったのかとフリオを問い詰める。女子学生たちの立てこもりを助ける警備員の女性は印象的な歌唱を披露しつつ、この運動に加わるのではなくあくまで手助けするだけだというような態度を見せる。プロテスト参加者は比較的明るい肌色の人間が多いのに対し、この警備員の女性はダークスキンである。チリでも肌の色による差別・階級差はあるようなので、同じ大学という空間の中でも格差が存在し、ゆえに取るスタンスも異なるということを表現しているのかもしれない。この警備員の女性は終盤のシーンでもフリオのことを意味深に、そして一方的に見つめている。
片や、加害者男性とその取り巻きは「推定無罪」「未来がある」とどこかで聞いたことのあるような言葉をずらずら並べていてあきれるが、女子学生たちの立てこもりを支援するために集まった男性たちもひとまとめに「男は出ていけ!」と言われてしまい困惑してしまう場面がある。もちろん何のために、誰のために集まっているのかということを考えれば「出ていけ!」と言われたら出ていくしかないと思うし、また助けが必要になれば集まるべきだろうと思うが、表面上だけでフェミニズムを理解した気になっている人間はこういう「波」があることを「一貫性に欠ける」と謗るだろう。実際劇中でも男性たちはそのように反論し、そのまま加害男性側につく者も数名いたような気がする。
物語が進むごとに様々な立場の人間がどんどん追加されていき、「台本」というフレーズが飛び出す。結局は「同意があったのか?なかったのか?」を全員から問い詰められてしまうフリオ。一体何のための活動だったのか、守られるべきは誰なのかという点が置き去りになり「真実を知りたい」という欲望が最高潮に達した時、この映画の作り手ですら問い詰められてしまうという流れは、まさに前作『聖なる証』のある仕掛けを彷彿とさせるものであり、これはフィクションの持つ力、その良い面と悪い面に自覚的な作家でなければ作れないシーンだと強く感じた。「男が作っているのか!」という誹りは半ば自虐的である一方、「女性だから」という経験ベースだけの連帯が難しいということをここまでで示してきた映画の中で飛び交う言葉としては半ば空虚というか「そういうことなんだっけ?」と首を傾げてしまうようなものでもある。こういう自己言及的なシーンは人によってはあざとく感じるだろうし、批判を先読みして潰しているようにも思えるだろう。そういう見方も否定できない演出ではあったが、前作との流れで見るとまた違って見える気もする(自分はそういう見方しかできない)。
結局「真実」は明かされないまま物語は終盤に入り、加害男性には一応の罰が与えられるが、大学側のステートメントには「そんなことまで言う?」という文章もあったりして、実際に起きたことなのかフリオの頭の中で想像されたことなのかは判然としない。フリオは音楽系の学部で声楽を学んでいて、劇中でバリバリに歌う理由が一応ある(この辺をすっ飛ばすミュージカルは「そういうものなので」という態度に胡座を書いていて苦手)のだが、教授だか講師だかから「声は風でしかない」「自分の声を見つけなさい」みたいなことを序盤で指摘されている。自らを渦中とする騒動の紆余曲折を経て、自分の「声」を手に入れたフリオは、諸処の場面で自らが押し殺してきた感情、様々な場所で人から見えないところに貼り付けられてきた風船ガムをその歌声でもって爆砕する。立てこもり作戦のコードネームでもあった「雨」が降りしきる中、フリオを優しく包むフリオの友人たち。真上からのカメラが円陣を組んだ彼女たちを捉え、徐々に引いていく。これは誰の視点なのかということを考えていると映画が終わる。
見ている間ずっと「これでいいのか?いいのか……、ん?いいのか???」と、揺さぶられ続ける映画だった。それこそフェミニズムの歴史も「第二波」「第三波」などと呼ばれることがあるが、どのような過去があって今があるのか、そして未来にはどのようなことが起きるのかということを考え、共有するための作品だったように思う。この映画の中に答えがあるのではなく問いとして映画が存在しているという状態は、いちクリエイターとして呑気にそんなことやってられるのか?と思いもするので悩ましい。監督にできることはフリオを、友人たちを暖かく抱きしめることだったと言われれば、それはそうなのかもしれないとは思う。