映画は土から生えてこない

人がいて、映画ができる。

レイチェル・タラレイ監督『タンク・ガール』(1995)

タンクガールのDVDジャケット。主演のロリ・ペティがゴーグルをつけてこちら側に顔を近づけている。全体にコミック調のカラフルで楽しげなデザイン。

画像引用元:Amazon.co.jp: タンク・ガール [DVD]

感想

当時革新的ゆえにそこまで過激ではないのにR指定され、10日間しか劇場上映されなかった女性主人公のコミカルアクション。ドキュメンタリー『ウーマン・メイク・フィルム』でも触れられていて気になっていた。原作コミックが劇中にも頻繁に引用されるので雰囲気を壊さず、というか原作に捉われず無茶苦茶やることが作品へのリスペクトになっているという感じで、緩かろうがなんだろうが好き勝手やってるのが最高。のちにスターになるナオミ・ワッツが出ていたり、『トワイライト』でブレイクするキャサリン・ハードウィックが美術で参加していたりと、映画史的にも重要な作品だ。

 

荒唐無稽でどうでもいい映画かというとそうでもなく、キャラに感情移入させる序盤の流れは上手いし、フュリオサより前にフュリオサっぽいアクションやってんじゃんとか、得るものはたくさんある。悪玉のマルコム・マクダウェルが、部下の忠誠心を試すために割れたガラスの上を歩かせるシーンはあんま見ないし、わけわからん占い武器(「愚者」の文字に鳥獣戯画のウサギ)と人間の血液を吸って真水に変える恐ろしい装置(一人の人間からあれだけしか取れないのが逆にリアル)を挟んで、マクダウェルもガラスの上を裸足で歩いてるのが意味不明過ぎて、行くとこまで行った悪人なのがわかるようになっている。中盤の娼館でのミュージカルもやりたくてやってるのが潔い。男客まで巻き込んで歌い出すところに謎のピースなフィーリングがある。ガワのパンクファッションもめちゃくちゃカッコいいし、サントラのチョイスもイケてる。2回挟まるアニメーションもイキイキとしている。

リッパーはアーマーがプレデターみたいでカッコいいけど、顔が出ない役に有色人種キャストの多くをあてがうのは、それこそプレデターの最新作でも変わっていなくて、顔が出るキャストにもっと非白人がいればなとは思った。

 

映像特典は2010年代くらいに撮られたもので、この作品がどのように社会に影響を与えたかという観点からの語りが多かった。女性のアクションを女性が監督するということで相当苦労したそう。キャメロンがターミネーターを作ったらヒットして「やっぱりみんな女性アクション見たいんじゃん」ってなった話が切ない。

ほかにもレイチェル・タラレイが企画をアンブリンに持って行ったら「うちはここまで弾けていません」って言われてそれを原作者に伝えたら大ウケして”TOO HIP FOR SPIELBERG”ってTシャツ作った話とか、キャサリン・ハードウィックと音楽アドバイザーのコートニー・ラブのそれマジ?って初対面とか裏話までおもろい。

 

飯塚花笑監督『ブルーボーイ事件』(2025)

「ブルーボーイ事件」のポスター。裁判の証言台に立つ主人公サチとそれを見守るサチの周辺人物たちという構図。キャッチコピーは「私たちは、ずっとここにいた。」「知られざる歴史がここにある」ポスターの下半分は真っ青に塗られている

画像引用元:ブルーボーイ事件 : ポスター画像 - 映画.com

2025年製作/106分/G/日本
配給:日活、KDDI
劇場公開日:2025年11月14日

監督 飯塚花笑
脚本 三浦毎生 加藤結子 飯塚花笑
撮影 芦澤明子
照明 菰田大輔
録音 渡辺丈彦
美術 小坂健太郎
装飾 大谷直樹
衣装デザイン 田中亜由美
ヘアメイク タナカミホ
編集 普嶋信一
音楽 池永正二
助監督 高野佳子
キャスティングディレクター 山下葉子
制作担当 柳橋啓子

出演
中川未悠 前原滉 中村中 イズミ・セクシー 真田怜臣 六川裕史 泰平 渋川清彦 井上肇 安藤聖 岩谷健司 梅沢昌代 山中崇 安井順平 錦戸亮

 

感想

とりあえず見て、パンフレットを購入してほしい。この映画を「教科書的」に感じるのであれば、それは単にあなたが「知らなかった」ということに過ぎないのだ。誰のせいで「教科書」が必要になっているのか考え、まず「知る」こと。

 

♦︎

 

トランス男性である飯塚花笑監督の強い要望により、ほぼ当事者キャスティングの本作。ゆえに凡百の邦画では「御涙頂戴」になりがちな激情的な演技が、真に迫るものとなる。アー子(イズミ・セクシー)の「私たちは精神異常者ではない」という絶叫、メイ(中村中)の「オカマだって死んだら焼くんだよ!」という啖呵、サチ(中川未悠)の「手術を受けた私は幸せだがあなたたちの思うような幸せではない」という応答。ひとつひとつの言葉に魂が宿り、観客の心は震える。差別的な検事や無理解な弁護士の言葉も含めて、1965年を舞台にした作品のセリフであるにもかかわらず、2025年の社会でも同じような言葉が飛び交っているというあまりにも惨い現実が残念ながらある。しかし、サチは今も日本のどこかに「いる」。2025年の社会でもその事実は絶対に変わらないし、何人たりともその事実を否定できない。事実に、実存に目をひん剥き、耳をかっぽじって向き合い、知る。そして行動する。この映画を見た人間にも、見ていない人間にもその義務がある。

 

序盤は少々緩慢で目的の定まらない撮影に危うさも感じたが、見進めるうちに物語にどんどん没入していき、随所の小さな違和感が気にならなくなっていった。単に被写体が動いているのをカメラが追っているだけではないかと感じられるカメラワークが多かったが、屋上で脇役同士が水を掛け合うカットで役者の動きに合わせてカメラが段階的にティルトしていくシーンに限っては、生のダイナミズムが捉えられていた。篤彦(前原滉)がサチに結婚指輪を渡すシーンに代表されるダイアローグの固定長回しも、その場を目撃しているような臨場感に溢れていて効果的だった。終盤で裁判所の照明が落ちていく演出も全くこれ見よがしではなく、サチの個人的な内面が外部の光へと曝け出されていく過程を最小限の演出で視覚的に表したものであって、セリフと演技を適切に際立たせていた。サチの証言に合わせて過去の回想をシンプルに入れて戻る編集も人間が脳内で過去を思い出す時のスイッチングそのもののようであった。

シネマティック・ダブ・ユニット「あらかじめ決められた恋人たちへ」の池永正二による劇伴も、かかるタイミングやサウンド自体はやや扇情的でありながら、抑制の効いた進行にすることで物語に寄り添っている。サチが怪しげな病院を訪れるシーンでは、不自然に移調するバックトラックがサチの不安を的確に説明していた。

中村中の好演は言うまでもない。ある種自ら型に嵌まりにいくような立ち居振る舞いも彼女の鎧であることがわかっていく、そのグラデーションを見事に演じきっている。また、中川未悠は1965年を生きたサチにしか見えず、とても演技未経験とは思えない。世間の求める「男性像」「ゲイ像」「女性像」に翻弄され、あるべき自分自身というものを見失ってしまった経験が吐露されるシーンは、筆舌に尽くし難い凄みがあり、落涙してしまった。先述の「幸せ」に関するセリフも、他人の手に人生を握らせてなるものかという怒りと覚悟が、発声そのものに滲み出していた。監督曰く「演じる役のセリフをすぐに自分ごととして捉える力」を持っているという彼女。今後が楽しみな役者だ。

 

三橋順子石田仁の仔細にわたる解説によって史実の部分が確認できる劇場用パンフレットは必携だ。特に約90年間に渡るトランスジェンダー性別適合手術(SRS)に関する出来事がまとめられた年表は資料的な価値も高い。ダンカン・タッカー『トランスアメリカ』や、セバスティアン・レリオナチュラルウーマン』、東海林毅『片袖の魚』など、トランスジェンダーに関する映画作品も年表に組み込まれており、年表の末尾には本作『ブルーボーイ事件』の公開が記載されている。

 

セバスティアン・レリオ監督『波』(2025)

映画「波」のポスター。駅のホームで主人公のフリオが座っている。その周囲を大勢の人間が取り囲み、それぞれ赤、青、黄色の照明に照らされている

画像引用元:【波】 | 第38回東京国際映画祭

2025年製作/128分/チリ
原題または英題:La Ola(The Wave)

監督 セバスティアン・レリオ
脚本 セバスティアン・レリオ/マヌエラ・インファンテ/ホセフィーナ・フェルナンデス/パロマ・サラス
作曲 マシュー・ハーバート
振付 ライアン・ヘフィントン

出演 

ダニエラ・ロペス
ロラ・ブラボ
アヴリルアウロラ
パウリーナ・コルテス

 

感想

セバスティアン・レリオ監督の最新作を東京国際映画祭で鑑賞した。前作『聖なる証』を見た時は、物語の持つ功罪に凄まじく自覚的な作風にいたく感銘を受け、その年のベストに選んだ。このブログはサブタイトル(?)に「人がいて、映画ができる」と掲げているくらいだから、人が映画を作っていることを明確にしてくれる作家は一目置いている。

 

冒頭、暗闇に等間隔で並ぶ正体不明のサウンド。鑑賞後の今思えば、あれは人の呼吸だったのだろうか。徐々に暗闇が引いていくとEDMが鳴るクラブで主人公フリオ(ダニエラ・ロペス)が踊っている。顔馴染みと「H“Ola”」と挨拶を交わし、そのうち一人の男性と親密な空気になっていく。二人はそのままクラブを出て男性の自宅へと入る。カメラはドアの覗き窓へと近づいていく。部屋の中で何が起こっているのか見えそうで見えない。タイトル『LA OLA』が表示される。

主人公フリオはこの時に起きた出来事を、「あれは性加害だったのでは?」と考えるようになり、通っている大学で巻き起こったセクシャルハラスメントや男女差別を告発するフェミニスト運動の波に呑まれていく。特筆すべきは本作がミュージカル映画ということであり、序盤で大学の中庭にさまざまな“女性”(ノンバイナリーやトランス女性も含まれる)が集い、レイプ犯への怒りを顕に踊り跳ねるシーンは間違いなく本作の白眉の一つだ。もうこの時点でちょっと泣いてた。

 

その後はフリオが自分の体験を振り返る中で、声を挙げる女性たちの中心にいながら強い連帯を感じたり、逆に阻害されている気分になったりといった変化を、ひとところに留まらない流動的なものとして描いている。当然この世にはさまざまな女性がいるので「女性だから」というだけで一枚岩になれるわけはなく、それぞれのスタンスや目的の違いがある。フリオは「声を上げる」かどうか逡巡し、堂々と歌唱してはいても自らの感情を吐露できているわけではなく、様々な場面・場所で感情を押し殺しては噛んでいる風船ガムを机や椅子の裏に貼り付けていく。運動を立ち上げた発起人たちは社会にアピールしたいがあまりマスコミの目を引くことに注力しすぎたり、最終的にはフリオのあずかり知らないところで勝手に学長と話をつけてしまっていたりする。そういう態度をフリオに近しい友人たちは快く思っておらず、独自に行動したいと考えるようになるものの、結局は共に大学への立てこもり(「雨を降らせる」作戦)に参加する。女性を含む警察官たちは証拠がないことを論い、女性リポーターは同意が本当になかったのかとフリオを問い詰める。女子学生たちの立てこもりを助ける警備員の女性は印象的な歌唱を披露しつつ、この運動に加わるのではなくあくまで手助けするだけだというような態度を見せる。プロテスト参加者は比較的明るい肌色の人間が多いのに対し、この警備員の女性はダークスキンである。チリでも肌の色による差別・階級差はあるようなので、同じ大学という空間の中でも格差が存在し、ゆえに取るスタンスも異なるということを表現しているのかもしれない。この警備員の女性は終盤のシーンでもフリオのことを意味深に、そして一方的に見つめている。

片や、加害者男性とその取り巻きは「推定無罪」「未来がある」とどこかで聞いたことのあるような言葉をずらずら並べていてあきれるが、女子学生たちの立てこもりを支援するために集まった男性たちもひとまとめに「男は出ていけ!」と言われてしまい困惑してしまう場面がある。もちろん何のために、誰のために集まっているのかということを考えれば「出ていけ!」と言われたら出ていくしかないと思うし、また助けが必要になれば集まるべきだろうと思うが、表面上だけでフェミニズムを理解した気になっている人間はこういう「波」があることを「一貫性に欠ける」と謗るだろう。実際劇中でも男性たちはそのように反論し、そのまま加害男性側につく者も数名いたような気がする。

物語が進むごとに様々な立場の人間がどんどん追加されていき、「台本」というフレーズが飛び出す。結局は「同意があったのか?なかったのか?」を全員から問い詰められてしまうフリオ。一体何のための活動だったのか、守られるべきは誰なのかという点が置き去りになり「真実を知りたい」という欲望が最高潮に達した時、この映画の作り手ですら問い詰められてしまうという流れは、まさに前作『聖なる証』のある仕掛けを彷彿とさせるものであり、これはフィクションの持つ力、その良い面と悪い面に自覚的な作家でなければ作れないシーンだと強く感じた。「男が作っているのか!」という誹りは半ば自虐的である一方、「女性だから」という経験ベースだけの連帯が難しいということをここまでで示してきた映画の中で飛び交う言葉としては半ば空虚というか「そういうことなんだっけ?」と首を傾げてしまうようなものでもある。こういう自己言及的なシーンは人によってはあざとく感じるだろうし、批判を先読みして潰しているようにも思えるだろう。そういう見方も否定できない演出ではあったが、前作との流れで見るとまた違って見える気もする(自分はそういう見方しかできない)。

 

結局「真実」は明かされないまま物語は終盤に入り、加害男性には一応の罰が与えられるが、大学側のステートメントには「そんなことまで言う?」という文章もあったりして、実際に起きたことなのかフリオの頭の中で想像されたことなのかは判然としない。フリオは音楽系の学部で声楽を学んでいて、劇中でバリバリに歌う理由が一応ある(この辺をすっ飛ばすミュージカルは「そういうものなので」という態度に胡座を書いていて苦手)のだが、教授だか講師だかから「声は風でしかない」「自分の声を見つけなさい」みたいなことを序盤で指摘されている。自らを渦中とする騒動の紆余曲折を経て、自分の「声」を手に入れたフリオは、諸処の場面で自らが押し殺してきた感情、様々な場所で人から見えないところに貼り付けられてきた風船ガムをその歌声でもって爆砕する。立てこもり作戦のコードネームでもあった「雨」が降りしきる中、フリオを優しく包むフリオの友人たち。真上からのカメラが円陣を組んだ彼女たちを捉え、徐々に引いていく。これは誰の視点なのかということを考えていると映画が終わる。

 

見ている間ずっと「これでいいのか?いいのか……、ん?いいのか???」と、揺さぶられ続ける映画だった。それこそフェミニズムの歴史も「第二波」「第三波」などと呼ばれることがあるが、どのような過去があって今があるのか、そして未来にはどのようなことが起きるのかということを考え、共有するための作品だったように思う。この映画の中に答えがあるのではなく問いとして映画が存在しているという状態は、いちクリエイターとして呑気にそんなことやってられるのか?と思いもするので悩ましい。監督にできることはフリオを、友人たちを暖かく抱きしめることだったと言われれば、それはそうなのかもしれないとは思う。

 

アンマリー・ジャシル監督『パレスチナ36』(2025)

映画「パレスチナ36」の英語版ポスター。大勢の男性が馬に乗って荒野を走っている。男性たちは軍服を着て銃を担ぎ、頭に白や赤の布を巻いている。

画像引用元:【パレスチナ36】 | 第38回東京国際映画祭

2025年製作/119分/パレスチナ・イギリス・フランス・デンマーク合作
原題または英題:Palestine 36

監督 アンマリー・ジャシル
脚本 アンマリー・ジャシル
撮影 エレーヌ・ルヴァール
編集 タニア・レディン
音楽 ベン・フロスト

出演 

ヒアーム・アッバース
カメル・アル・バシャ
ヤスミン・アル・マスリ
ロバート・アラマヨ
サレ・バクリ
ヤーファ・バクリ
カリーム・ダウード・アナヤ
ビリー・ハウル
ダーフィル・ラブディニ
リアム・カニンガム
ジェレミー・アイアンズ

 

感想

この映画では、監督の過去作『Milh Hadha al-Bahr/Salt of This Sea(この海の塩)』『Lamma shoftak/When I Saw You(ぼくに見えた道)』や、メイ・マスリ『ラヤルの三千夜』ダリン・J・サラム『ファルハ』ミシェル・クレイフィ『ガリレアの婚礼』タルザン・ナサールとアラブ・ナサールガザの美容室』といったパレスチナ関連の映画、『シャティーラキャンプの子供たち』『ガザに留学した医学生』『Maradona's Legs』『LYD』といったパレスチナ関連のドキュメンタリーを見ていれば、はっきり言って、すでに知っている出来事しか起こらない。イギリスの二枚舌外交による、パレスチナへのユダヤ人入植、シオニストの台頭、そして虐殺。パレスチナで起きていることは、これ以外に原因がないのだから、描くことは同じになって当たり前なのだ。もちろんこれらの歴史を知らない人間にもわかるように映画は作られているのだろうが、もうこの歴史を知らない時の自分のことは思い出せない。それほどパレスチナの歴史を知るということは、自分にとってそれ以前の自分と以後の自分を大きく分つ出来事だった。

そのように何が起きるか知っていながら、映画が上映されている間は常に何が起こるかわからず、心休まる瞬間はついぞ訪れない。この二つの状況は矛盾しない。現実のパレスチナでは幾度となく停戦→爆撃が繰り返され、大人だろうが子どもだろうが生命はことごとく虐殺の対象になっている。この異常な現実を知っていれば、映画のどの瞬間で人が殺され、爆撃されるかわからないほどの緊張状態が続くことを、未鑑賞の人間でも容易に想像できるだろう。この暴力を、このロジックを、このやり方を自分は知っていると確認し続ける119分、これほど虚しい時間はない。

 

2000年代を舞台にした現代劇である『Salt of This Sea(この海の塩)』や1967年のヨルダン、パレスチナ難民キャンプを舞台にした『When I Saw You(ぼくに見えた道)』では一個人の内面を掘り下げるかたちでパレスチナの政治状況を表現したアンマリー・ジャシル監督だったが、本作では複数人の内面を描く群像劇の形をとり、1936年を起点とする「ことの始まり」を、村出身の青年とその友人家族、都市部の裕福なアラブ人政治家と新聞記者でもあるその妻(女性名では新聞に載せられないため男性の偽名を使っている)、武装蜂起する労働者、折衝担当となるイギリス人などの視点から多角的に描いている。過去作と比較すると、個々人の内面はそれほど深掘りされず、むしろ特定の属性を持ったひとりひとりが歴史を動かす歯車となっているような印象さえ受ける。この演出スタイルの変化は、もはや既存の映画文脈に則った個人の情動でもって訴えかけることは不可能で、正しい歴史を端的に、そして性急に説明しないと現状を知ってもらうことすらできないという、怒りや諦めに近いものではないのだろうか。もちろん、政治家の妻で新聞記者でもあるフルード(ヤスミン・アル・マスリー)の視点を通して描かれる、当時のアラブ女性を取り巻く環境と女性活動家による運動のあらましなど、ほかにも印象的な部分はあるものの、映画を見終わった後に残るのは、物語が進むスピード感と、決定的な出来事が起こってしまった後のポッカリと穴が空いたようなやるせなさだ。

本作は冒頭から矢継ぎ早にことが進む。村出身の青年ユスフ(カリーム・ダウード・アナヤ)の父は、ユダヤ人入植者と土地について交渉してくると言ったその日に入植者から銃撃され帰らぬ人となり、次のカットではもう彼の葬儀が行われている。葬儀の最中にイギリス軍が村を訪れ、反抗するユスフの弟を拉致、続くシーンではユスフが武装勢力に加入し……といったテンポ感は、ある種ドライですらある。あれよあれよと都市部のアラブ人や地主たちはイギリス政府とシオニストに利用され、抵抗運動も虚しく土地を失う。農村部では「反乱者」の洗い出しと称した略奪、暴力、拉致が蔓延り、ついには無抵抗の村民たちが処刑のような形で殺されていく。神妙な雰囲気で抑制の効いた劇伴演出はありつつも、劇的な出来事が立て続けに起きていくのは、フィクション性の高いアクション映画のようですらある。しかし、作中で不意に起こる諸々の「爆発」は、観客を楽しませるためのものではなく、パレスチナで暮らす人々の生活を観客に体験させるためのものだ。当時のパレスチナで起こったことを再現し、羅列するだけで劇的になってしまうような現実が異常であることを今一度直視し、決して忘れてはならない。そしてこんな現実を絶対に許さない。

 

「36」とタイトルにもあるように本作は1936年を舞台としているが、映画の序盤では「あなたが生まれた年の物語」(原文ママではないがこういう主旨)というテロップが出る。植民地主義の被害者はパレスチナだけでなく、現在も世界のそこかしこに存在し、そしてこれから先の未来にもいつ同じような出来事が起こるかわからないという認識をひとりひとりが心に留め置き、そうならないよう行動してほしいという願いが、そこには込められている。

 

余談

東京国際映画祭2025、アンマリー・ジャシル監督のティーチイン付き上映で鑑賞した。「映画の最後に鳴り響くバグパイプは元々アラブの楽器だったのを十字軍が持ち帰ったのであって、イギリス・アイルランドスコットランドの楽器ではないんです」という話が印象的だった。

TIFFの実行委員会は昨年にシオニストの作品を招聘し、あまつさえ賞まで与えてしまったことへの反省があるのか、今年は明確にプロパレスチナの作家とその作品を持ってきた。しかし、協賛にコカ・コーラ(世界的なBDSの対象)や住友商事イスラエル製攻撃型ドローン輸入)が並んでいるという状態は、イギリス政府並みの二枚舌であると批判せざるを得ない。パレスチナの監督を呼びつけて「いろはす」を渡すというのは、嫌がらせでしかないだろう。

また、二言目には『アラビアのロレンス』しか出てこない観客からのQ&Aにも辟易した。特にひとつ前の質問で「非西洋的な、アラブ視点からの語り直しが必要だ」という話をしたばかりなのに、「『アラビアのロレンス』と同じ曲が流れるのはオマージュか?史実か?」などという質問をした観客にはほとほとあきれた。ひけらかしは余所でやっていただきたい。

 

バルコニーの女たち(2024)|沖に集まる女たち

監督 ノエミ・メルラン
脚本 ノエミ・メルラン セリーヌ・シアマ

出演 スエイラ・ヤクーブ サンダ・コドレアヌ ノエミ・メルラン


感想

しょうもなさの中に切実な祈りがあり、わやくちゃなのに最後はじんとくる。男を殺して沖に集まる女たち。

 

エリーズ(ノエミ・メルラン)が「映画には台本があり動きが決められていて〜」と台詞を言いながら身体をまさぐられるシーンは、その後に起こる性暴力シーンも「これは決められた動きをやっているだけだから安心してください」と観客に伝える役目を果たしており、監督・主演であることを最大限に活かしていて唸った。虚実の交差や信条の直接さ、射程の広さ全てが高水準。

このクソ暑いのに男だけ上裸になれるのはズルいだろと言わんばかりに、FREE THE NIPPLEな映画でもあった。なんで地球がクソ暑くなってんのかまでちゃんと入れ込むところが真面目で好き。自分を軽んじたホームセンターのスタッフに対してルビーが啖呵を切るところも"指折り"の名シーン。向かいの男が撮影した写真のモンタージュでもわかるように、この作品の中で指という部位は性暴力の象徴でもあるが、ルビーとエリーズが土の中に指を入れて一緒に性的快楽を得ているような描写もあるように、癒しを与えうる部位としても用いられていた。道具そのものに何かが宿っているのではなく、使う人間次第だとする視野の広さが、性暴力加害者の亡霊たちに対する断罪的ではない態度にも表れている。「死して償え」ではなく「まず認めろ」という言葉には、責任逃れの死ではなく生をもって償い続けろという含意も受けとった。

 

みどりの壁 デジタル・レストア版(1970)

監督・脚本・製作 アルマンド=ロブレス・ゴドイ
撮影 マリオ・ロブレス・ゴドイ
音楽 エンリケ・ピニラ
編集 アティリオ・リナルディ

出演 フリオ・アレマン サンドラ・リバ ラウル・マルチン

 

感想

『革命する大地』で引用されていて気になった作品。

冒頭いきなりクレジットが流れる。本編末尾のクレジットに収まっていないスタッフだろうか。続いてリマスターものによくあるレストアの経緯を説明するテロップが出てくるが、これが異様に詳細でやたら長い。どこで見つかったフィルムか、どこにどんなダメージがありどんな修復作業を行ったのか、さらに今回のレストアに留まらず今後はどのような修復が必要なのか、そのための資金も集めたいという旨まで説明される。こんなに長いレストアテロップは初めてかもしれない。テロップが終わると今度はレストアに関わったスタッフのクレジット。まだ始まらない。ここまでで5分くらい経っているんじゃないか?長い長い暗闇、そして沈黙の後ようやく本編が始まるとけたたましい音と共にジャングルの風景が映し出され、炎がメラメラと燃え盛っている。そして1秒未満のカットが何度も挟まる。おそらくジャングルではない別の場所のシーンがカットインするたびに音がぶつ切れる。とてつもないエナジーを感じるオープニングで否が応でも期待が高まる。

都会の生活を捨てジャングルに移住する家族。国の「農地改革」を信じていた人間が国に裏切られ、大事なものを失う。役所をたらい回しにされるシーンは『生きる』を思い出した。終盤の畳み掛けは圧巻。人間が現実を受け入れられない様子と、現実を受け入れて「しまった」瞬間の描き方、その時間の使い方が素晴らしい。森に響き渡るガラスの音が鼓膜に張り付いて離れない。

とにかく編集と撮影が凄かった。矢継ぎ早に短いイメージを繋いでいったかと思えば「ここまで続くのか!」と驚く長回し、流麗なカメラワークと陰陽のコントラスト。『革命する大地』でも引用されていた終盤の病院内のカットや役所内の長く暗い廊下をゆっくり進んでいくカットはしっかりと脳裏に焼きつく。タイプライターの撮り方ひとつとってもめちゃくちゃカッコいい。なんだこれ。昨今の「レストア版」に感じるようなシャープさは無いものの、作品の力を存分に感じられた。ぜひ配信にも流してほしい。

 

ニナ・メンケス『The Bloody Child』(1996)

the bloody childのポスター。軍人の服装をした主演ティンカ・メンケスが手に顎を置いてこちらを向いている。肌の色は赤く編集されている。タイトルの「L」の文字が木のようになっている

画像引用元:The Bloody Child (1996)|imdb.com

1996年製作/85分/アメリ
日本劇場未公開

監督 ニナ・メンケス
脚本 ニナ・メンケス
撮影 ニナ・メンケス
編集 ニナ・メンケス

出演 ティンカ・メンケス

 

感想

英語字幕付きで見たけど、例によって全然説明しない映画なので日本語字幕だったとしても全貌がすんなり理解できることはないかも。「こういうこと、なのかな……?」くらいにしかわからない。

車の後部座席で死んでいる女性と加害者であろう男性を見つけるティンカ演じる軍人とその部下。前夜の加害者男性の行動と、軍人がわらわら集まってきてどうしていいものか考えあぐねている様子、ティンカの過去とも心象風景ともとれる詳細不明の8mm映像が時系列も脈絡も曖昧なまま延々と交差し続ける。

実際の事件を下敷きにしているらしいけど、死んでいる女性と加害者らしき男性の関係もよくわからないまま、軍人たちは事件と関係ない話や「女が男を騙そうとしたんだろ」と勝手な憶測を喋り続ける。

ティンカ演じる上官は部下に簡潔な指示を出したり、男に向かってミランダ警告(「あなたには黙秘権がある〜」)を淡々と述べたり、部下からの報告を受けていたりと、主体的な行動はほぼ描かれないが、8mm映像の中では密林の中で全身を真っ白に塗ってうずくまっていたり、アフリカのどこかに赴いて街中で項垂れ、洗礼のようなものを受けていたりする。これがどういう映像なのかの説明も一切ない。

とにかく居心地が悪い。全編通して中身の掴めないモノローグ(「私たち3人はどこで再会する?」「鏡よ鏡……」「眠れ、眠れ……」)、人が死んでいるのに世界は一切動じていない空気、死んでいる女性に男の顔を押し付けて「これがいいのか!」と怒鳴り続ける部下の暴力性、軍人同士の会話からほのかに香るマチズモ、決して表出することのないティンカの内側にある何か、それらすべてが不穏。

そこに唯一何の影響も受けない存在として黒馬が事件現場に現れ、意のままにフレーム内を闊歩する。黒馬は限りなく自由にも見えるし、所在なくも見える。

えらい難解だけど、キレキレのファーストカットでお釣りが来る。あとは身を任せるだけというか。わからなくても満足感がある。